2011年10月3日月曜日

⑧東北ボランティア3日目・夜明けの被災地

2010/6/25の石巻市門脇地区

2011/3/19の石巻市門脇地区

三日目。
昨夜、飲み過ぎだったか、やや頭が痛い。
ベースは朝七時からのミーティングで一日が始まる。

ここ、石巻ボランティア支援ベース絆では、いくつかのプロジェクトが同時進行しており、各プロジェクトの進捗状況と当日の予定が発表される。
ブラックボードに、それらが手際よくまとめられ、誰が見てもわかるようになっている。

⑦東北ボランティア記錄・繊細なボランティア活動

なかなか、ブログの更新が進まなくなって恥ずかしいが、東北ボランティア2日目の夜について記す。


写真洗浄プロジェクトの作業を終え、本日の帰宅場所である石巻市内のベースへ戻る。
黄色のアイコンがベース

2011年9月27日火曜日

⑥東北ボランティア2日目:写真復元プロジェクト

やっと、ボランティアの活動らしい活動となった。
台風15号が各地で猛威をふるっているようで、ここ東北には夕方くらいに直撃するらしい。
おかげで、予定していた活動が軒並みキャンセルとなり今日は屋内作業のこの活動のみとのこと。



到着した場所は、石巻市福地体育研修センター。
大川小学校から西へ2kmほどいったところにある。

ここでは、津波で流された被災者の様々な品を、洗浄し取得物として展示している。


2011年9月24日土曜日

⑤東北ボランティア2日目:宮城県石巻市大川小学校・雄勝小学校

屋上に取り残されたバスが津波の威力を物語る
一路、北上し女川町を抜け、再び石巻市へ。
石巻市雄勝町地区も大きな被害となったところ。
雄勝病院は、患者・職員のうち9割。
雄勝小学校では、全校児童・職員の7割が、いずれも死亡・行方不明となった。
公民館の上にバスが乗っている映像で有名なところだ。





④東北ボランティア2日目:宮城県石巻市女川町

その後、北上して女川町を通過。
震災前の女川町
震災後の女川町
こちらも壊滅的な被害があったところだ。
瓦礫の除去も、ニュースやYoutubeの投稿画像に比べれば進んでいると思うが、やはり凄惨な現場には変わりはない。

東北電力の女川原発もこの近く。
高台にあったため、津波の被害を免れたが、実にあと80cmのところまで押し寄せていたそうだ。





2011年9月23日金曜日

③東北ボランティア2日目:宮城県石巻市大谷川地区

早朝、激しい風と打ち付けるような雨音で目を覚ます。
台風15号が接近しているとのことで、石巻市の牡鹿半島大原浜地区の海岸も大時化だ。
午前6時前に、震度3の余震が起こった。
余震が来る数秒前に、地鳴りのような「ごごぉー」という音がして時期に揺れがきた。
聞けば、被災地での余震はこのように地響きが鳴って数秒後に揺れが来るらしい。
私のiPhoneの緊急地震速報は、揺れがきてから10秒後程度になった。。。

おそっ。

あいにくの天候で、外作業はキャンセルされ、お世話になっている絆支援ベースの写真復元プロジェクトのお手伝いさせていただくこととなった。
宿泊した大原浜地区の集会場から車で1時間程度の福地体育研修センター。
移動は、浜松からボランティアに来ているサムライさん(松本さん)の車に乗せていただくことになった。

まず、山を越えて牡鹿半島の反対側に当たる、谷川浜地区にでる。
この地区の小学校、谷川小学校の廃墟に遭遇した。


校舎の時計は、おそらく津波の襲来時刻と思われるところで止まっている。
これは谷川小学校に関わらず、被災した他の学校も同様だ。
やや高台にあった小学校から下ったところに大谷川浜地区がある。

いや、正確には、そこに大谷川浜集落があった、という表現が適当なのかもしれない。

30戸100人ほどが暮らしていたというが、津波でほとんどの建物が流失。
引き潮の力で、海に持って行かれほとんど何も残らなかったという。
残ったのは1戸のみ。
集落は壊滅した。

現存するのは建物は一軒のみ

後に知ったが、自治会としての大谷川集落も解散を決めたというのだ。
自治会が「解散」するなんて、聞いたことがない。
一向に示されない復興計画や支援の遅れもあり、地域はバラバラになった。

写真からもわかる通り、更地に雑草が生えているだけだ。
だが、たしかにここには小さな集落があり、
ホタテやホヤの養殖でつつましくも豊かな生活が、そこにはあったはずだ。
31人が死亡あるいは行方不明となった。
それに加えて、住民も離ればなれになった。

私も聞いたことがなかった集落だったが、今回の大震災はこのようにほとんど報道がされない、小規模集落がたくさんある。
私は、この目でみてきた。
本当にたくさんあるのだ。

吉村さん達が支援している大原浜地区も実は同じ様な状況に陥っていたが、ボランティアが入り、地域を支えている。
よそ者が、地域の魅力を感じ、地元の方々を励まし、一緒に地域を支えようとしている。

一人ひとりにできることはまだまだ沢山ある。
【続く】

日本一心


2011年9月21日水曜日

②東北ボランティア一日目その二

東北ボランティア1日目:宮城県石巻市part2

佐々木さんご夫妻にお礼をのべ、今晩の宿泊場所となっている大原浜地区集会所へ。
ここはこの地区の災害大作本部にもなっているところで、地元のご厚意でボランティアスタッフの拠点にもなっている。


帰宅すると地元の方々や他のボランティアさんたちが、宴の準備をされていた。
悪天候のため仕方がないとはいえ、なにもしていないのに料理や酒を頂くわけにはいかない!
とは思ったが、食べないのは却って失礼。
「飲みニュケーションも大事だよ」との吉村さんの言葉を最大限受け止めて頂いた。

特に盛り上がったお相手は、45歳の石森さん。
地元の水産加工業に携わっていたが、その加工施設も津波で被災し、従業員は全員解雇されたそうである。
石森さんは、現役の消防団員とのことで消防活動の話でも盛り上がった。
3/11、地震が発生し、仕事場から消防団として駆けつけ、積載車で訓練通り、水門を閉じ、地元のお年寄りの避難誘導したそうだ。
その過程で、常に水位を気にしていたので、水位の変化に気付き、津波の襲来を予測できたという。

避難先であるこの集会所にも津波は押し寄せたそうだが、さらに5mほど高台の小学校に移動して、事なきをえた。
しかし、同じ消防団でも、地震発生後、消防団活動につかずにいた3名の同僚は、亡くなったという。
活動にこなかったから、水位の変化に気づけなかったからだ、とは石森さん。
何故こなかったのだ、という同僚への問いかけのようにも聞こえた。

この宴では、石森さんが勤務されていた水産加工会社の社長も同席されていた。
今回の震災での被害は約10億円とのこと。
再建するのかどうかはまだ、わからないとおっしゃっていたが、、
30人ほどの雇用もあったとのことで、
是非とも再開してほしいとお伝えした(よそ者の私ですけど)

そんなこんなで、宴は続き、12時にお開き。
持参した寝袋に潜り込んで眠りにつき1日目が終了となった。

台風が近づいている。
不安が多いが、明日は明日の風が吹く。

日本一心


①東北ボランティア一日目石巻市大原浜地区

自分の価値観が変わった3月11日。
あの日から、ずっとずっと訪れたいと思っていた東北。
自分の中で、タイミングが掴めないでずるずると時間だけが過ぎていった。

そんな中、7月31日のCOMPLEXの復興支援ライブをみて、9月の東北いきを決めた。
自分のわがままというか、3月11日から、ずっと心のどこかにひっかかっていた思いを、なんとかしたかった。
あれだけ、不安になり感情を激しくゆれ動かした事象を、身をもって感じたかった。
それで、誰かの役に立ちたいとか、そんな立派な感情ではなく、同じ時間を生きている日本人としてこの歴史的な大災害の現場や空気感を感じたかったという個人的なわがままなだけた。

当初、自分一人で現地に入りたいと思う気持ちと同時に、迷惑になりたくはないと思い、県内の社会福祉協議会のHPから情報収集した。
やはり、個人のボランティアよりもバスパックなりで被災地に赴くことが良いようだという情報を得た。
それならばと信濃町社会福祉協議会に相談したところ、自分で被災地後とのボランティアセンターのHPをみてしらべろといわれた。
たしかに社会福祉協議会本来の業務ではないけど、ちょっと肩すかしを食らったきがした。

この時点で、自分が設定した東北行きまであと一週間。
そこで、上司に相談したところ、NGO「ヒューマンシールド神戸」の代表として国内外の災害被災地で活躍している信濃町在住の吉村誠司さんに相談してみることにした。
幸い、広報担当時に、取材したことがきっかけで面識もあり携帯も知っていたので連絡。

震災2日後には、東北に入ったそうで、以来、半年にわたり現地ボランティアの中心的存在として活躍され、私の申し出にもこころよく応じてくださった。
丁度、ご家庭の事情で信濃町に帰っておられ、再度の宮城入りを誘って下さり、今回の東北行きが実現できた。

地元の祭りが、18日/19日と開催され、これにはしっかり出てからいくことにしていたので、好都合だった。
当初、19日の夕方6時に出発の予定だったが、台風15号の影響で、和歌山のボランティアスタッフのコーディネートの必要が出たとのことで、20日早朝5時に変更。

4tトラックで三陸道を北上中
20日05:00am。
黒姫駅西口で待ち合わせて、吉村さんのトラックに乗せてもらい東北へ出発。

これまでのボランティア活動の様子などをうかがいながら、移動。
途中、福島に入ったときはガイガーカウンターで放射線量の測定数値を見せていただいた。
明らかに、高いレベルでの数値を実感しながらの移動となった。

約6時間で、石巻市に到着。
現在、ボランティアスタッフのベースとなっている施設によりつつ、市内を移動。


がれき除去の様子を説明する吉村さん



まだまだ、がれきが散乱しているし住宅の損壊は手つかずで、
悲惨な光景に見えた。

市内の信号も、後回しになったのか今で修復しておらず、
警察官の方が、街頭の至るところで交通整理にあたられているのが印象的だった。

コンビニで昼食を調達し、食べながら牡鹿半島へ移動。
震源に近くなっているということもあり、幹線の至るところが陥没しており、車の乗り心地は極めて悪い。

40分ほどで到着したのは、大原浜という集落。
ここでは、かなり前から、地域に根ざしたボランティア活動をされているとのことで、ベースとなる地区の集会場に着くなり、地元の方から熱烈な歓迎を受ける吉村さん。


少々のばつの悪さを感じつつも、礼を欠くことのないように名刺を配って挨拶した。

ここの地域は、津波で約70軒あった世帯が現在では半分の34軒程度になったとのこと。
がれきの撤去作業が進んだ現在では、ただの更地に見える海岸沿いには、多くの民家や、
牡蠣の加工施設(牡鹿半島は牡蠣やほたての養殖が盛ん)が並んでいたが、
すべて津波で流されてしまったそうである。

その中でも、古くからの古民家や土蔵のいくつかが、多少の損傷を受けながらも、
倒壊の何を逃れたものがある。
ボランティアのなかまたちが、この建物をどうにか残して、有効活用できないかと、
思案し、ひとつのアイデアとして、「食堂」として活用することを提案するのだという。

提案者は、愛媛県松山で、イタリアンレストランと居酒屋を経営する若手経営者。
賛同者の募金を資金として、改修作業を行い、食堂の立ち上げを行い、
軌道にのったところで、地元の方々に受け渡したい、というプロジェクト。




このプロジェクトには、吉村
さんたちボランティアのバックアップがあるのだが、成否は、地元の方々の理解と協力が欠かせないとのことで、その場で、地元区長さんなどへのプレゼンが始まった。
吉村さんのお取りはからいで、同席させていただいたのは、大変有意義なものだった。

あくまで、営利法人ではなく、NPOあるいはそれに準じた組織体で取り組み、
地元に貢献し復興支援を行いたいと、熱弁をふるう若手経営者。
それをやや、心配そうに聞く地元の方々に、信頼を築いている吉村さんがフォロー。
結果、地元の方々の応援を取り付けることとなった。

次は、建物の所有者への許諾のとりつけ。
車で、20分ほどの病院に勤務する歯科医師で、被災後は他の地域で暮らしており、
古民家の取り壊しを検討しているらしいとのこと。
取り壊されてしまっては、このプロジェクトは台無しである。
午後4時から所有者への説明が始まり、この席にも同席させていただいた。

主旨には賛同するという所有者だが、やはり責任の所在について不安が残るとのこと。
その不安を丁寧な説明で取り除いていく吉村さんやボランティアスタッフたち。
最後には、所有者が全面的な協力を約束するまでとなった。
若手経営者は、四国から奥さんと娘さんを呼び寄せて、
運営に力を注ぐとのことだ。気合いが違う。


津波の傷跡が色濃く残る漁協事務所
その後、この地域の漁協事務所に立ち寄る。
大震災の影響で、海岸部は50~80cm程度の地盤沈下が発生したこのこと。
折からの台風と満ち潮によって、そうとう内地まで浸水していた。

漁協の施設も、津奈美の被害を受けている。
牡蠣などの冷凍・冷蔵施設は全てだめなのはもちろん、
牡蠣やワカメ漁のための施設もダメージをおっている。
2階は部分は事務所となっており、幸いにも津波の被害を免れて、
このときも3人の事務局員さんが業務をされており、我々を温かく迎えて下さった。

次に、港近くの漁師、佐々木さんのお宅へ。
当然、津波で被災され、いまは、1番高台にあった車庫を改築した仮設の建物で、
ご夫婦で暮らしている。

「また、きちゃったよ!」と、終始おどけた感じて話す吉村さん
「助さん(吉村さんのニックネーム)、戻ってきたの?」と、
奥さんが素敵な笑顔で出迎えた。
ご主人も現れて、少々おじゃますることに。

大学生ボランティアが作ったという仮設の建物だが、
なかはこぎれいにされており、居心地の良い空間である。
通されるやいなや、吉村さんは隣部屋にある仏壇に線香をあげて手を合わせた。

「おばあちゃんが、まだ行方不明なんです」

そっと話した佐々木さんの奥さんの言葉。
それまで、陽気で元気に出迎えてくだされ忘れていたのだが、
ここは東日本大震災の被災地なのだ。

私も、吉村さんに続いて、お焼香いただいた。

日も沈み、すでに辺りは暗くなっていたが、
そばや肉じゃが、缶ビールなどが出された(運転手としてもうひとかたいましたので)。
せっかくだからと頂いたわけだが、佐々木さんの奥さんは料理上手で、とても美味。

たっぷり頂き、ベースの大原浜集会場へ。
帰りの車で、吉村さんが言った。

「佐々木さんの奥さん、ああやって、もてなしてくれるのにはわけがあるんだよ」

3月11日。
震災発生時、自宅にいたのは奥さんとおばあちゃん。
津波が押し寄せ、必死で高台に逃げようとおばあちゃんの手を引いたが、
足が弱いおばあちゃんは、津波にのみ込まれてしまった。
手を引きながら、助けきれなかった奥さんは、
ずっと罪の意識を感じているそうで、何度も自殺しようとしたという。

そのなかで、佐々木さん宅を訪れて支えてくれたボランティアの元気に、
救われたそうである。
だから、ボランティアとの交流は、いまでも奥さんの大きな支えになっているとのこと。
復興支援とは、とても繊細なものを含んでいるように感じた。
がれきの除去や道路整備だけではない。

もう少し書きたいことがあるが、もう午前1時。
あしたもあるので、寝ます。
続きは、またあした。

日本一心

お休みなさい。

2011年8月1日月曜日

楽に生きていませんか


来月、東北に行こうと決めた。

COMPLEXのライブをみて、自分に何が出来るかを考えた。

なにか、できると・・・いや、なにかしたいと強くは感じるが、
俺には歌もギターもない。

なので、被災地に行こうとおもった。
自分の目でみて、体を 動かし、感じてこようと。

それでも大したことができる自信はないけど、
後々、後悔はしたくない。

同じ日本人として、父親として、男として、人間として。
東北入りは9月を予定。

2011年7月18日月曜日

直売所

妙高の直売所「とまと」に行った。
海水浴の帰りというタイミングで寄ったので、野菜関係はほぼ完売の状態。
仕方が無いので、店内で加工品をながめる。

信濃町とおなじような気候なので、栽培される農作物も、それから作られる加工品も似たかよったか。
そのなかで、とうもろしのドレッシングはオモシロイと思った。

なんでも、チャレンジだね。