2011年9月21日水曜日

①東北ボランティア一日目石巻市大原浜地区

自分の価値観が変わった3月11日。
あの日から、ずっとずっと訪れたいと思っていた東北。
自分の中で、タイミングが掴めないでずるずると時間だけが過ぎていった。

そんな中、7月31日のCOMPLEXの復興支援ライブをみて、9月の東北いきを決めた。
自分のわがままというか、3月11日から、ずっと心のどこかにひっかかっていた思いを、なんとかしたかった。
あれだけ、不安になり感情を激しくゆれ動かした事象を、身をもって感じたかった。
それで、誰かの役に立ちたいとか、そんな立派な感情ではなく、同じ時間を生きている日本人としてこの歴史的な大災害の現場や空気感を感じたかったという個人的なわがままなだけた。

当初、自分一人で現地に入りたいと思う気持ちと同時に、迷惑になりたくはないと思い、県内の社会福祉協議会のHPから情報収集した。
やはり、個人のボランティアよりもバスパックなりで被災地に赴くことが良いようだという情報を得た。
それならばと信濃町社会福祉協議会に相談したところ、自分で被災地後とのボランティアセンターのHPをみてしらべろといわれた。
たしかに社会福祉協議会本来の業務ではないけど、ちょっと肩すかしを食らったきがした。

この時点で、自分が設定した東北行きまであと一週間。
そこで、上司に相談したところ、NGO「ヒューマンシールド神戸」の代表として国内外の災害被災地で活躍している信濃町在住の吉村誠司さんに相談してみることにした。
幸い、広報担当時に、取材したことがきっかけで面識もあり携帯も知っていたので連絡。

震災2日後には、東北に入ったそうで、以来、半年にわたり現地ボランティアの中心的存在として活躍され、私の申し出にもこころよく応じてくださった。
丁度、ご家庭の事情で信濃町に帰っておられ、再度の宮城入りを誘って下さり、今回の東北行きが実現できた。

地元の祭りが、18日/19日と開催され、これにはしっかり出てからいくことにしていたので、好都合だった。
当初、19日の夕方6時に出発の予定だったが、台風15号の影響で、和歌山のボランティアスタッフのコーディネートの必要が出たとのことで、20日早朝5時に変更。

4tトラックで三陸道を北上中
20日05:00am。
黒姫駅西口で待ち合わせて、吉村さんのトラックに乗せてもらい東北へ出発。

これまでのボランティア活動の様子などをうかがいながら、移動。
途中、福島に入ったときはガイガーカウンターで放射線量の測定数値を見せていただいた。
明らかに、高いレベルでの数値を実感しながらの移動となった。

約6時間で、石巻市に到着。
現在、ボランティアスタッフのベースとなっている施設によりつつ、市内を移動。


がれき除去の様子を説明する吉村さん



まだまだ、がれきが散乱しているし住宅の損壊は手つかずで、
悲惨な光景に見えた。

市内の信号も、後回しになったのか今で修復しておらず、
警察官の方が、街頭の至るところで交通整理にあたられているのが印象的だった。

コンビニで昼食を調達し、食べながら牡鹿半島へ移動。
震源に近くなっているということもあり、幹線の至るところが陥没しており、車の乗り心地は極めて悪い。

40分ほどで到着したのは、大原浜という集落。
ここでは、かなり前から、地域に根ざしたボランティア活動をされているとのことで、ベースとなる地区の集会場に着くなり、地元の方から熱烈な歓迎を受ける吉村さん。


少々のばつの悪さを感じつつも、礼を欠くことのないように名刺を配って挨拶した。

ここの地域は、津波で約70軒あった世帯が現在では半分の34軒程度になったとのこと。
がれきの撤去作業が進んだ現在では、ただの更地に見える海岸沿いには、多くの民家や、
牡蠣の加工施設(牡鹿半島は牡蠣やほたての養殖が盛ん)が並んでいたが、
すべて津波で流されてしまったそうである。

その中でも、古くからの古民家や土蔵のいくつかが、多少の損傷を受けながらも、
倒壊の何を逃れたものがある。
ボランティアのなかまたちが、この建物をどうにか残して、有効活用できないかと、
思案し、ひとつのアイデアとして、「食堂」として活用することを提案するのだという。

提案者は、愛媛県松山で、イタリアンレストランと居酒屋を経営する若手経営者。
賛同者の募金を資金として、改修作業を行い、食堂の立ち上げを行い、
軌道にのったところで、地元の方々に受け渡したい、というプロジェクト。




このプロジェクトには、吉村
さんたちボランティアのバックアップがあるのだが、成否は、地元の方々の理解と協力が欠かせないとのことで、その場で、地元区長さんなどへのプレゼンが始まった。
吉村さんのお取りはからいで、同席させていただいたのは、大変有意義なものだった。

あくまで、営利法人ではなく、NPOあるいはそれに準じた組織体で取り組み、
地元に貢献し復興支援を行いたいと、熱弁をふるう若手経営者。
それをやや、心配そうに聞く地元の方々に、信頼を築いている吉村さんがフォロー。
結果、地元の方々の応援を取り付けることとなった。

次は、建物の所有者への許諾のとりつけ。
車で、20分ほどの病院に勤務する歯科医師で、被災後は他の地域で暮らしており、
古民家の取り壊しを検討しているらしいとのこと。
取り壊されてしまっては、このプロジェクトは台無しである。
午後4時から所有者への説明が始まり、この席にも同席させていただいた。

主旨には賛同するという所有者だが、やはり責任の所在について不安が残るとのこと。
その不安を丁寧な説明で取り除いていく吉村さんやボランティアスタッフたち。
最後には、所有者が全面的な協力を約束するまでとなった。
若手経営者は、四国から奥さんと娘さんを呼び寄せて、
運営に力を注ぐとのことだ。気合いが違う。


津波の傷跡が色濃く残る漁協事務所
その後、この地域の漁協事務所に立ち寄る。
大震災の影響で、海岸部は50~80cm程度の地盤沈下が発生したこのこと。
折からの台風と満ち潮によって、そうとう内地まで浸水していた。

漁協の施設も、津奈美の被害を受けている。
牡蠣などの冷凍・冷蔵施設は全てだめなのはもちろん、
牡蠣やワカメ漁のための施設もダメージをおっている。
2階は部分は事務所となっており、幸いにも津波の被害を免れて、
このときも3人の事務局員さんが業務をされており、我々を温かく迎えて下さった。

次に、港近くの漁師、佐々木さんのお宅へ。
当然、津波で被災され、いまは、1番高台にあった車庫を改築した仮設の建物で、
ご夫婦で暮らしている。

「また、きちゃったよ!」と、終始おどけた感じて話す吉村さん
「助さん(吉村さんのニックネーム)、戻ってきたの?」と、
奥さんが素敵な笑顔で出迎えた。
ご主人も現れて、少々おじゃますることに。

大学生ボランティアが作ったという仮設の建物だが、
なかはこぎれいにされており、居心地の良い空間である。
通されるやいなや、吉村さんは隣部屋にある仏壇に線香をあげて手を合わせた。

「おばあちゃんが、まだ行方不明なんです」

そっと話した佐々木さんの奥さんの言葉。
それまで、陽気で元気に出迎えてくだされ忘れていたのだが、
ここは東日本大震災の被災地なのだ。

私も、吉村さんに続いて、お焼香いただいた。

日も沈み、すでに辺りは暗くなっていたが、
そばや肉じゃが、缶ビールなどが出された(運転手としてもうひとかたいましたので)。
せっかくだからと頂いたわけだが、佐々木さんの奥さんは料理上手で、とても美味。

たっぷり頂き、ベースの大原浜集会場へ。
帰りの車で、吉村さんが言った。

「佐々木さんの奥さん、ああやって、もてなしてくれるのにはわけがあるんだよ」

3月11日。
震災発生時、自宅にいたのは奥さんとおばあちゃん。
津波が押し寄せ、必死で高台に逃げようとおばあちゃんの手を引いたが、
足が弱いおばあちゃんは、津波にのみ込まれてしまった。
手を引きながら、助けきれなかった奥さんは、
ずっと罪の意識を感じているそうで、何度も自殺しようとしたという。

そのなかで、佐々木さん宅を訪れて支えてくれたボランティアの元気に、
救われたそうである。
だから、ボランティアとの交流は、いまでも奥さんの大きな支えになっているとのこと。
復興支援とは、とても繊細なものを含んでいるように感じた。
がれきの除去や道路整備だけではない。

もう少し書きたいことがあるが、もう午前1時。
あしたもあるので、寝ます。
続きは、またあした。

日本一心

お休みなさい。

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